2009年2月17日星期二

わかりあう

15課 [わかりあう] 「中級から学ぶ」

 

「旅の恥はかき捨て」ということわざがある。旅に出たら少々のことは許されるという意味だ。昔の日本では旅に出ることは非常に困難なことだった。多くの人は生まれた土地を離れられず、死ぬまで限られた所に住み、その上、厳しい上下関係の中で生きていた。旅はその定められた枠出られる、ただ一つの機会だったわけだ。それで、旅に出たら少しぐらいの自由は許されてもよいと考えたのだろう。

 無礼講という言葉もある。古くから使われている表現で、現在でも「今日は無礼講で」と言われれば、会議の席でも個人的な集まりでも、そのときだけは相手は自分より目上か目下かなどを忘れ、少しぐらいの失礼があっても気にせず自分の意見を述べることができる。しかしこのときが過ぎれば、また厳しい上下関係に戻らなければならない。しっかりと決められた社会の枠が長く壊れずに続いてきたのは、無礼講のような息抜きがこれを支えてきたからなのだろう。

 現代の日本では、社会全体としての上下関係はほとんどなくなったように見える。とはいうものの、昔とはまた違った集団の秩序がしっかりと出来上がっている。その一つが会社である。会社のなかでは相変わらず社長、部長、課長、平社員という身分にしたがって縦の関係が厳しく守られ、それを乱そうとする者はあまりいない。ところが会社とかかわりのある人間関係は気にかけるのに、それ以外の人に対しては無関心であることも多い。電車の中で、お年寄りが立っていても気付かないふりをしておきながら、会社の上司や取引先の人が乗ってくると、慌てて席を譲ったりすることさえある。このような態度は「ウチ」と「ソト」という関係から説明できる。自分の属している会社、自分の利益に直接かかわるグループを「ウチ」といい、「ウチ」の者に対しては規律正しくその秩序を守るようにする。一方、「ソト」に対しては「ウチ」に対するほどの関心を持たない。

 外国人のことをよく「外人」というが、これもやはり同じような意識から出た言葉だろう。何年日本に住んでいようと、日本人より日本的であろうと、いつまでも「外人」圧かされるという嘆きを聞いたことがある。「日本人は確かに大変丁寧だが、ただしそれはお客様に対する丁寧さであることは明らかで、自分たちの社会に受け入れて、理解し合おうとは、決してしてくれない」という嘆きだ。「よそ者」というわけである。このように「ソト」の者をなかなか「ウチ」へいれようとしないのは、そうすることでしっかり作り上げられた「ウチ」社会を壊すまいとしているからなのだろう。

 これは日本だけのことだろうか。

 


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